石井孝法 184

こんにちは.石井です.

唐突ですが
以前,執筆した月間武道の
「武道の可能性を探る(第147回)
他者と比較しない成長モデルを築くために」の中に,
「己の完成」に関わる「道」がわからないと書きました.
で,最近「なぜ,わからないのか」がわかりました.

それは,嘉納の記述にありました.
「精力最善活用と修養」の第1回の中の
「道とは何ぞ」という問いへの回答があります.
「人生の究極の目的については、
人々で種々意見が異なるであろうが、
我らはこれを、自他共栄の極致に
達するにあると信じている。[中略]
仮に何かほかのものであるとしても」云々
と言い切らずにぼかしています.
これが哲学的な意味を持ってぼかしているのかと
思っていましたがそうではないようです.
その少し後にこのように書かれています.
「道は深く哲学に求める必要もなければ、
遠く他人の教えを待つ必要もない。
近くおのれの判断の力で、
眼前にあるものを捉えればよいのである」
としています.
そして,社会の変遷によって変化をするものだと加えています.
この記述は,未熟なものが多い社会では
極めて危険を伴うものだと思いました.
(解釈問題に陥るため)
嘉納はスペンサーの影響を受けていますので
自他共栄も最大多数の最大幸福という
功利主義的に捉えることもできます.
個人的には時代の変化に関係なく
「道」というものがあると信じていますが難しい.
ただ,上記の嘉納の立場をみると
柔道の定義に自他共栄を入れずに精力善用だけを
表現した意味がよくわかりました.
嘉納の中では,精力善用が時代の影響を
受けないと結論づけたのだと思います.

ふと,昔,村田先生と嘉納思想について
議論していたな〜と思い出しました.
こんな話ができる友達がほしいものです.