石井孝法 147

こんにちは.石井です.
東京五輪の延期が決まって,
「死」とは何かについて
考える時間が増えました.

SNSで
結果が出なければ腹を斬る
というくらい
自己犠牲の上で
やってきたからだと思います.

腹を斬るといわせるだけの
五輪だと思ってましたが
COVID-19感染拡大を前にして
その価値が問われるようになりました.

五輪開催のために
必死でプロモーションが
行われていますが
そうしないと開催が
危ぶまれているということの
裏返しのような気もしてます.

私が学んできた五輪の価値は
やはりビジネス化の波にのってから
消え失せたのかもしれません.

多くの関係者が
本来の価値を伝えるということに
あぐらをかいてきたのは
事実だと思います.

さて,この五輪の価値の
ギャップを知ることで
正直,心の持久力が
かなり削られました.
自分が多くのものを
犠牲にしてきたからです.

そうした時に,
どう死ぬかを考えます.
後悔のない死を考える時
価値のあることに
生きたいと思うからです.

悶々と考える時間が
続いていたところに
三浦春馬の自殺や
嘱託殺人(ALSで苦しんでいた人)の
ニュースがありました.

私が死を考える理由と
上記二つの死にも
共通の問題がありそうです.

剥奪説で言われる
「価値のある将来」
です.

この逆にあたる
これから先がどんどん悪くなる
もしくは
価値がないと判断すると
自ら死を近づけると思います.

世界は自分が
作っているものですが,
他者が作っていると考えると
諦めてしまう可能性があります.
これは危険です.

(哲学的思考の海に飛び込むと
長くなりそうなので)
ざくっと省略して
私が辿り着いたところは
自己犠牲は醜い
ということです.
日本では,
自分を犠牲にして
他者を助けると
とても評価されます.
しかし,自己犠牲は
美しいとは言えません,
利他的なマインドは重要ですが
自己犠牲の上にあってはいけません.

こう考えた時,
やはり嘉納治五郎師範の
自他共栄がピタッとくるのですが
この実現がまあ難しい.
これが苦しむ理由になります.

とにかく
苦しんでいる人は
先に自己犠牲を見直しましょう.
それを求めてくる人がいますが
人の意見であなたを形作らないように.